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Re[19]: 魏志倭人伝で遊ぼう の 2
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□投稿者/ 案山子 一般人(26回)-(2012/08/01(Wed) 11:20:13)
| ■No94544に返信(masaoさんの記事) > >「會稽東冶縣人有入海行遭風」の「縣」には、『繫、所謂系』という意もあることを見逃すと、東冶縣が存在したと誤読することになる。 > > なら、何でこう書いたんだ? > 案山子さん、あんたが書いたコメントですよ。 > 良く読んでごらん。 > > 「前110年、漢に征服されて、会稽郡の東治県となり、治所が置かれた。 > ・・・・東治城遺跡 > は、↓からの引用です。 > http://heartland.geocities.jp/zae06141/fukusyuu.html >
> 東冶と記述される場合と東治と記述される場合があるが、 > ロケーションは同じ。」 > > あんたの書き方なら > 会稽郡東治県があることになり、それは、会稽郡東冶県と記述される場合もある > と書いたんだよ。 > それは、君の解釈の問題だよ。
> 下手な言い訳で逃げてると矛盾が露呈するんだよ。 >
『計其道里當在会稽東治【冶】之東 ・・・魏志 其地大較在會稽・東冶之東 ・・・後漢書 から、「東冶」は後漢の時代の呼び名でしょう。 その上で、「会稽」と「東治」の二点間は法制である。 『法制である』というのはこの二点間の距離を千里と規定している ということです。 実際に会稽の北緯30度と東治(現福州)北緯26度間距離は約432kmです。』
を理解できてないようだね。
『「東冶」は後漢の時代の呼び名でしょう。』とはっきりとかいてある。 何処に、東冶県と記述してあるの。 勝手に、歪曲してもらってはこまるよ。
> 案山子さんは、こう書いています。 > > >俺は「会稽東治」との記述が間違っている > と記述したことはない。 > 『何故、陳寿は魏志で「東治」と記述したか?』 > と問うているのだ。 > > >と、云うより > 魏志で東治と記述されたことこそ問題にすべきです。 > > 原本である魏志倭人伝の記述「会稽東治之東」をそのまま読まずに、
> 引用した上捏造を加えた 後漢書 「会稽東冶之東」を「会稽と東冶の間を東」 > と解釈して勝手に先に進んだのは。あなたでしょう。 > 「会稽と東冶の間を東」と勝手に解釈しているのは君だ。 おれは、『会稽の東と東冶の東の二点間表記』であると解釈している。
> 案山子さんは、魏志倭人伝の記述は、間違っていると思ったので後漢書の記述を > 採った。 > あのね。 俺は、魏志に間違いがあるとか後漢書に間違いがある と記述したことは一度もない。
俺が否定しているのは、 誤読による間違った解釈を否定しているのだ、 勿論、否定するということは固定すべき自論を持ってだ。
勘違いをしてかいしゃくし、俺の言いいたいことを捻じ曲げないでくれる。
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