| マテナさん、おしゃべりの相手をしてください。
>とんでもありません。気なんか悪くしてませんよ。 >でも、誤解が解けたようでよかったです。 どうも、です。
>いつも思うのですが言葉は難しいですね。自分が思っている通りに相手に伝わらない >事の方が多いと思うぐらいです。 確かに難しいですね。以前言いましたが皆さん違った国語辞典を持っていますので。
>私は他人がフィリピン人や他の人をどのような言葉で表現しようが、それはその人の >言葉に対する認識の差があるので、私がとやかく言えることではない。という >スタンスを取るようにしています。 言葉に対する認識の違いをを考慮してもフィリピン蔑視に感じられるコメントが 多いとついおせっかいになってしまいます。
>ですから、どなたかが、フィリピン人の一部の人を指して”猿”と言っても、それは >きっとその人なりにいろいろな意味が含まれているのだと解釈していますので否定は >しません。 一部の当事者で留まっていれば、そうなのですが・・・
>でも、私は多分一度も自分の言葉としてはフィリピン人を猿と呼んだ事は無いと >思います。 それは私の頭にある”人を指して猿と言う”表現はあまり良い >イメージがないからです。 私も良いイメージを持たないのでついついでしゃばります。
>私は以前先輩に教わった事を、今では後輩や一緒に仕事をしてくれているスタッフ達 >に時々話します。それは「あなたも私も全ての人はパーフェクトではない。必ず >良い所と悪い所を持っている。相手の悪い所ばかりを見ても自分が得る物はない。 >出来るだけ相手の良い所を見るようにして、悪い所は補いあい、良い所からは学び >取ろうとする気持ちが自分を成長させるのだ。」と。 少なくとも私のフィリピンとの付き合い方は、そのようにしたいと考えています。
>この言葉は自分にももう20年以上言い聞かせ続けている言葉で、なかなか理想 >どおりには行かない事もありますが、人に限らず全ての物に対して尊敬の念を持つ >ように心がけているつもりです。犬や猿からも教わる事はあると考えるように >なってから、他人を見下すような事はめったになくなったような気がしてます。 >ただ、自分や自分が守りたいと思っている人間に牙を向けて来る相手に対しては >別ですが。 まさしく同感です。
>> その宗教についての知識より信じる心が大事なんです。
>この考えを否定するつもりはありません。 >これも人それぞれの考え方があって当然だと思いますので。
>ただ、私の意見を言わしていただけるのであれば、私は何を信じるかも大事なよう >な気がします。
>極端な例を出してしまい恐縮ですが、麻原彰晃を信じる事が何も信じないよりも >良いとは簡単には思えないのです。 マテナさんが↑で仰るようにパーフェクトな宗教心では,ありませんが信じる心には、 知識なんてたわいもないものです。宗教の特殊性は、信じることで完了します。 真実とか論理とか正義の有無は、意外とどうでも良いことなのです。 だから社会は、危険な宗教を排除しようとします。
>宗教という言葉を使うと解釈の幅が広がりすぎるような気がしますが、言い方を >変えれば哲学や価値観になると思いますし、いずれにしてもどのような考えを自分 >が取り入れるかによって人生が大きく変わる場合もあるでしょうから、信じる物を >自分で選べるチャンスがあるなら、盲信ではなく自分なりの信念を持って信じる >ものを選びたいと思うのです。 哲学と宗教の間には、決定的な違いがあると思います。 出発点は,一緒だったのでしょうが・・・・ 産まれてすぐにキリスト教徒になる多くのフィリピン人は、信じるものを自分で選ぶチャンスをほとんど持てなく人生を送っていくはずです。自分なりの信念を持って信じるものを選ぶ事を極めて狭められてしまってフィリピン人の宗教心を笑う事ができるでしょうか。勿論マテナさんは、笑わないでしょう。 聖書を読まなくても立派なキリスト教徒だと言いたいだけなのですが。 マテナさん、お喋りにお付き合い頂きありがとうございます。
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