| ■No36474に返信(adamさんの記事) > 私も似た様な考えですが、責任は副次的な物で、愛する事それ自体が喜びですね。
adamさん、私も同じですよ〜!
人を愛する事ができる喜びを日々感じています。 でも、私が喜びを書かずに極端な言い方をしたのは、半分照れもありますが、それと同時に、良いときばかりではないし素直に相手への愛を能動的に表現できない時もある、と思うからです。
良い関係が続いている時には”愛する事が責任である”と思う事は無いと私も思います。
でも、例えば相手に対して不信感を持ちたくなるような場面があったとしても、その時にも愛情(この場合は思いやりといった意味合いかな)を持った言動をする事が”責任”であると言う意味です。
ここで、感情に支配され愛情をうまく相手に伝えれないと、小さな亀裂が決定的な溝に発展しかねず、特に日本人とフィリピン人の場合はフィリピン人が我慢してしまう場合が多いようで、その結果溝が表面に出るのは、ずうっと後で日本人の立場が弱くなった時まで時間がずれる事例が多いようですので。
ですから、初めから立場を対等にしておく事が大切だと思いますし、感情に任せて自分の考えを押し付けるような事をしない事が愛情にあふれた家庭を壊さない為の”責任”だと思うのです。
完璧な人間などいないはずです。 意見の対立が起こった時に、自分は間違っていない、と思っても、相手や第三者から見たら、100%間違いが無い事など滅多に無いはずです。
ですから、どんなに相手が間違っていて、自分に落ち度は無いと思っても、一旦相手の立場になって考える事ができるかどうかが、結局は相手の間違いを正しい方向に導く近道であるように思えてなりません。
”相手の立場でも物事を考える。”
言うほど簡単でない事を私も日々実感し続けています。
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