![](./icon/niwa3.gif) | うささん、今晩は
>まず、いみじくもjackさんがmasao氏について「上から目線」ではないのかとの指摘がありました。そして彼は「自分は確信犯的にそうしてるのだ」と返した。 いかなる意味での「上から」なのでしょうか?
そのの始まりは、私達のコメントを馬鹿にして「床屋政談なんか」と「上から目線でしょしょり出た」からですよ。 前々から「上から目線」のあなたのコメントを不快に思っていましたがそれは、あくまでも他の人達とのコメント合戦でのこと、それが私に向けられたので反発ついでに「あんたは、何様だ?」とコメント返し。
>かって沖縄における米軍基地反対闘争にふれてmasao氏は「沖縄は反日活動家の巣窟と化してるから掃討戦をやる」とmasao氏は言い放ちました。
繰り返しますが沖縄の現状は、異常です。 沖縄の人達を偏向報道、偏向教育で反日を推し進めている。 反日外国勢力に組した日本人の思想ごっこの実践場。 違うますか?
>そもそも国民国家の成立はヨーロッパにおいてもせいぜいナポレオン戦争の頃でしょう。それまでの封建領主や貴族、僧侶階級による権力の独占にたいして、第三身分といわれた平民階級、つまりブルジョアジーがフランス革命によって権力を掌握していこう国民国家という概念が成立した。 それまでの軍隊が絶対主義権力に金などで雇われた傭兵部隊だったのに対し、国民軍というかたちが成立して、戦法もがらりと変わった。そこにナポレオン軍が連戦連勝を続けた秘密があった。 それは戦う側の相手にも影響をおよぼし、プロイセンなどにはヘーゲル国家論やクラウゼヴィッツ戦争論などの哲学を生み出した。いっぽう、社会的政治的権力を手中にしたブルジョアジーはイギリスを中心に産業革命を勃興させ膨大な富を原始的蓄積により獲得した。ここにイギリスの市場を神の手とする経済学が発展していく。 しかし、そうした国民国家の政治的社会的経済的成立はその中から早くもその隠された矛盾を暴く力を生み出していった。 マルクス、エンゲルスは国家とは搾取階級と被搾取階級との非和解的階級対立を隠蔽し、被抑圧階級を軍事的官僚的統治機構によって抑圧するものに他ならないと喝破したのでした。 そうして早くも、1871年、普仏戦争においてナポレオンの甥ナポレオン三世を皇帝とするフランス政府はプロシア軍に破れ、首都パリの防衛すら放棄したときに、労働者階級を中心としたパリ市民は蜂起し、自ら自身の権力を樹立したのです。短命に終わったとはいえ、コミューン三原則といわれる、代議員のリコール制度、報酬は平均的労働者の収入を越えない、執行機関と立法機関の統一と言われる画期的な原則や、女性もふくめた普通選挙、教育など画期的な方策を生み出していったのです。 マルクスはこのパリコミューンに関して、史上はじめての、そして新たに発見された労働者階級の権力の形態であると評価したのです。共産党宣言において、「万国の労働者団結せよ」と呼びかけたマルクスは、パリコミューンに労働者階級の権力の成立する根拠と形態を見たのでした。それは国民国家を越えていく全世界の労働者階級の連帯しうる、権力の形態にほかなりませんでした。 このマルクスの精神を受け継いだはずの社会主義インターナショナル(いわゆる第二インターナショナル、その主力はドイツ社民党でしたが)において何が起こったでしょうか? 第一次世界大戦の勃発、それは、帝国主義間の資源、領土をめぐる争闘戦にほかならなかったのですが、カール・カウツキーを首領とするドイツ社民党はドイツ議会において戦争予算に賛成の票を投じたのでした。唯一反対票を投じたカール・リープクネヒトを除いてです。 ここに、ロシア社会民主主義労働党(多数派、ボルシェビキ)を率いるレーニンは第二インターナショナルの破産を宣告し、「帝国主義戦争を内乱に転化せよ」とのテーゼを明らかにして、ドイツ社民党の少数派であったローザルクセンブルグなどとともに第三インターナショナルの結成をめざして活動を開始したのです。
そして、ついに1917年ロシア革命に成功する。コミューンを意味する、あるいは評議会とも訳されるロシア語のソヴィェトに全権力を掌握したのです。この時点ではけして一党独裁などではなかった。革命的諸派の結集するソヴィェトがコミューン的権力を形成していったはずです。しかし、レーニン自身、社会主義革命はロシア一国では成立しえないと考えていたにもかかわらず、ヨーロッパにおける革命勢力の無残な敗退ののち、ソヴィエト権力は変質をとげていってしまった。それはローザルクセンブルグなどが「ロシア革命論」において危惧していた、コミューンの独裁から党独裁、そして少数者の独裁へと道を開くものでしかなかったのです。 レーニン自身、ボルシェビキ党の変質に気づき、二度にわたる脳卒中の発作から死へと向かうなかで、スターリンが掌握しはじめたわけのわからぬ書記局権力に対して最後の闘争を挑みますが、病はその貫徹を許さなかった。
歴史をなぞるのは、良いことですがそこからうささんは、何を学んだんでしょうか? 私は、「正しい歴史なんか無い」「歴史は、屁だ」と自分の言葉として書いてま すがうささんは? そうそう、ついでに、 「俺達は、見てきた様に歴史を言う。」
>さて、尖閣諸島の領有問題。井上清氏も言ってるが、こういう問題はいたく国民感情というか、民族感情を刺激するものらしい。冷静に議論すればいいのではないかと思うのだが、感情的にたかぶったような声ばかりが一時聞こえてきたような気がする。 私は井上清氏の論旨に全面的に賛同するものではない。それはたしかに中国側の国民感情、民族感情におもねるような側面があると思うからだ。ただしかし中国側の領有権主張には一理あるし、歴史的な根拠も示されていると考える。
では、感情的に高ぶらずに続きをお願いします。
>masaoさんへの反論はあらためて井上清論文の六を熟読玩昧してくださいというのでたりると思います。
丸投げには、丸投げで十分でしょう。 これで納得しなければ、井上論文の六を詳細に反論したいと思います。
常設国際仲裁裁判所の判例
1928年4月4日確定
<パルマス島事件>
パルマス島は、ミアンガス島などともいう。米国のフィリピン群島に属するミンダナ島のサン・オーガスチン岬とオラン ダ領東印度諸島に属するナヌサ群島の最北端の島との中間に位置する1つの孤島である。
米国の提督が、1906年の1月21日にそこへ訪問したことから始まる。彼は、そこが米国領土だと信じていたところ、 オランダ国旗が翻っているのを見て驚き、この旨を米国陸軍長官に報告した。そして、同年3月31日からオランダと米 国との外交交渉が、開始した。しかし、解決せず1925年1月23日に仲裁裁判所に付す旨で合意した。
<当事者の主張>
・米国は1898年の米国・スペイン間のパリ条約でスペインからフィリピンを譲り受けた。
→フィリピン群島の一部であるパラマス島も含まれるから米国のもの
そこで、その島がスペインのものであったのかを証明してみる必要がある
パルマス島は、スペインが発見
このことは、多くの地図で確認でき、また1648年のミュンスター条約で承認されている。
パルマス島は、フィリピンの地理上の一部を構成しているので隣接性の原則 により、米国の主権に属する。
・オランダは、スペインによる発見、その他の取得も立証されていないことを主張。。主要な主張は1677年からまた は、1648年以前から今日まで主権の諸権利 を保有しかつ行使している。
<判旨>
発見による領域権原は、継続的かつ平穏に国家的機能を行使することで取得される領域権原に優先しない。また、 隣接性の原則は、領域権原にはならない。したがって、米国の主張は、退けられた。
つまり国際法は、「島の発見による領有権主張より、継続的且つ平穏に主権行為を行っ てきた国家の領有権主張が優先される」というこきとが1928年に既に決定していたのである。
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