| 19世紀までは清国の支配地域で満州の一部であったが、1860年に北京条約によって沿海州一帯を清から獲得したロシア帝国が沿海州の南部に建設したのが現在のウラジオストックです。
北京条約についてウラジオストックについてウイキは次のように記載している。
「ロシアは、まず清が認めていない1858年のアイグン条約の条文をだすことで、その効力を清に確認させた。これでアムール川左岸[1]の領有権を確保する。さらに吉林将軍管轄区の一部である、図們江(以下「豆満江」)、ハンカ湖〜ウスリー川以東アムール川以南の地域(東韃靼)が割譲された。アイグン条約では清とロシアの共同管理地となった地域であったが、この条約によってロシア領と確定された(第一条)。この条約のもと興凱湖界約(1861年)、琿春東界約(1886年)がむすばれて国境線がほぼ定まった。」
さらに
「ロシアはこの後すぐにウスリー川以東など広大な地域を沿海州に含め、すでに2年前から清に無断でそこに建設していたハバーロフカの領有を正当化するとともに、海參崴(ハイシェンワイ)にウラジオストクを建設した。そしてすでに設置していたアムール州などとあわせて1884年沿アムール総督府を設置することになる。
五千ルーブリ紙幣に「1858」の年号とともに描かれたハバーロフスク豆満江が清と朝鮮との国境であった[2]ことから、清は日本海への出口を奪われたことになるが、琿春議定書(1886年)で豆満江の航行権(いわゆる「出海権」)が認められた。
なお国境について20世紀に入ってから、曖昧な部分を巡って張鼓峰事件、珍宝島事件が勃発している。張鼓峰事件では、その影響で中国にとって日本海への出口の豆満江が封鎖されてしまったが、1991年中ソ国境協定で再びそれが認められた。
最終的に国境は、中華人民共和国とロシア連邦とによる中露国境協定(2004年)で確定された。なお、豆満江左岸がロシア領となったことに関連して鹿屯島(韓国語版)問題が1883年朝鮮当局より提起されているが、現在でもロシアは反応を見せない。」
と書かれている。
中ロ国境協定(2004年)は、プーチン大統領と胡錦濤・国家主席の両首脳により、ウラジオストックで結ばれた。この協定では、ハバロフスク市はロシアに帰属することとなった。上述したとおり、ウラジオストックは南京条約で清から不平等条約で奪われたところだ。
ここで、国境協定を結ぶこと自体が凄い。だって、かっての中国領土で帝政ロシアに奪われたところだよ。いわば、尖閣諸島で尖閣諸島が日本領であることを認めたのと同じようなシュチュエーションじゃないかい。
ウラジオストックでウラジオストックがロシア領であることを中ロ両国が認めたことを中国国民は知っているのかな。
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