| masao さん、
教えて、といわれても私は教師でないですよ。なので、以下は私の見解です。
宗教の核は「信じる」ことでしょう。これがないと何事も始まらない。その特徴は極めて主観的です。
その対象は神や仏であっても、イワシの頭であっても、アサハラの呪いであっても、信仰さえあればいい。
宗教の構造は問わない。パスカルは「不合理であるゆえに信じる」、と無茶ともいえる信仰告白している。構造を、構成を研究しているのが神学者なのでしょうけど、信者には概ね人気がない。
宗教の目的は、幸福の追求と内なる平安の確立でしょう。なのですが、邪教を信ずれば大変な不幸をもたらす。
他方、哲学は元々知識学といえる百科であったもので、知識全般を扱っていた。天文、造船、物理、土木、建築、などなどあらゆる学を含んでいた。それが時代と伴に分科していき、それぞれ独立の学に成長した。
それで哲学に現在残っているのは、(私の得意で皆さんを脅かしている?)認識論だけなのですね。(私は認識なんていう難語を使いたくないのですが、外に適当なの語がないので止む無く使用しています。)判断論はそれに含まれるでしょう。
認識とは、「判る」ということです。これの特徴は客観的であることにあります。科学研究の分析結果も認識であり、判るということです。それの方法論は確立していてこの頃はあまり話題にならない。
ところが、人間世界の認識はけっこう難しい。見たからといって必ずしも判ることでないし、人の心理を読むことも必要になることもあるし、「だまし」や「うそ」がしょっちゅうあるからそれを見破らなければならない。(実は私は、実践認識の達人は刑事だとおもっています。)
ということで、宗教は信じることであり、哲学は判ること、です。
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