| masao さん、
ご賛意ありがとうございます。
お友だちのように、また私の同業者たちの多くのように、国境をまたげば何かが分かるということではないです。「あっちの家はゴールドでつくられている」、という現代のマルコポーロにはなれるでしょうけど。私も相当の回数異国に行きました。それで、なにが「判ったか」といわれれば、こころもとない。
この国ではものいえば唇さむしです。いえばいいことでないです。何を把握するか、理解しているかが大事なのに。
私は成功している翻訳者です(えへん、本当だよ)、私のこれまでの世界体験はほとんど無意識で意図していないものでした。ただ、必死に対応してきた。それがけっこう稀有であったことであったり、うまくいっているので、自分でも、驚き、嬉しがっています。
私は音楽、踊りが好きだから、あるグループを応援し、世界に展開した。それだけを私の自慢とし、それこそを偉ぶります。翻訳なんか俺がいなくとも誰かができる。しかし、日本発信のあの踊りは俺がいなければうまくいかない、俺がサポートすれば彼(女)らは生きる。そうして世界のプロたちをずいぶんにうならせた。NY のブロードウェイで影響力のある評論家が身を乗り出して凝視していたのが印象的です。また、その公演後のワークショプにあわただしく「サインアップしてくれ」と急き込んできた女性もおもいだします。
物理のおれが踊りのリクツが判らなくとも世界に主張できる。そのリクツはなにか。その踊りをご覧になればいいです。ベートベンのりくつがわからなくとも、その音楽に驚愕する。わが踊りは世界にアピールした。それは底意で意図していなくとも、うまいくいった。わが踊り子たちはおれを尊敬してやままない。(もっとも、今は退役しています。)
それは、いまの世界はまちがっている、という私の認識であり、主張でもあります。それは理系の私だから云える。今の世界は理系でうまく行き過ぎている。
我らは、おろそかにし、忘れているものがある。それを再発見し確認するのが私のフィリピンなどへの旅です。戻ることも勇気であり、抵抗を受ける判断です。
では、また
あうふた
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