| ペンちゃんも淋しがってるようだし、フーさんもドゥマゲッティやセブのの情報が読みたいということのようだし、そういった部分に関してのみ、復帰ということにしようかと思う。 じゃあ、どういう部分についてはもはや関知しないのかということも明らかにしておこうと思う。 最近の新聞記事によれば書店の本棚などでは「嫌中憎韓」本のコーナーができたらしい。 理由は売れるから。憂えるべき事態のように私などは思うけれども、ネット上でのそうした言葉のやりとりの異常な増殖や、せんだっての都知事選挙で田母神なる極右の候補が60万票も獲得したり、そういう時代の趨勢のようなものがあるんですかね。 いわゆるネットウヨクといわれる人たちのたとえば「南京大虐殺は無かった」とか「『従軍』慰安婦問題などは存在しない」とかいう発言の繰り返しは「はじめに結論ありき」でそれこそ事実にもとづく検証については無視したような形になっているというのは、最近になってようやくネット上のサイトでもいくつか見かけるような「事実派」といわれるようなサイトでも言われている。 この板での「否定派」の発言に「事実派」のサイトのURLを紹介してもまともに読んでいるとは思えないものね。でもってあたかも私が事実に基づかない発言をして反撃され撤退したかのような雰囲気作りがなされてしまっている。 G氏流論争術のなせるわざだろうか。「事実と意見は違う」などというごく当たり前のことがいわれ、あたかも私が事実に反した発言を繰り返したかのように思われているのだろうか?しかしそれは違うね。ごく巧妙なしかけでもってそうしたレッテル張りが行われたにすぎない。 事実ということも時と場所によって変化する。ガリレオガリレイ以前の天動説の時代には「日は昇り、日は沈む」ということが当たり前のように経験的事実として受け止められていたし、言葉としてはそういう言葉は今でも生きて使われている。 事実はひとつだろうか?本来はカントの不可知論、認識論にまで遡及して論じるべきような問題なのかもしれない。しかしここで問題になったような歴史認識の部分に関するような問題は、ひとつひとつ事実とされるものを積み重ねていって検証するしかないのだろう。 片言隻句での揚げ足とりのような足がらみ戦法については基本的に無視することにしよう。
ということが前説で、先日、セブ日帰りでイミグレーションにアニュアルレポートその他をしに行ってきたことを書こうと思っているのだけど、なにやらまたぞろ慰安婦問題についてうんぬんされているので、最初にそちらにも対応しておきたいと思うので、この続きはまた今日明日中にでもね。
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