| ■No4323に返信(JJさんの記事) > ・・・1クス・・・
JJさんはいつも皆さんに笑いを振り撒いていますね。
JJさん いつもみんなに 笑いを振りマキ
カルメン・○キ
アイルランド人とユダヤ人の血を引くアメリカ人の父と日本人の母との間に生まれる。鎌倉市出身
1969年に『時には母の無い子のように』(作詞は寺山修司)でデビュー。十七歳とは思えないその妖艶な雰囲気と歌唱力、そして投げやりな歌いっぷりが話題を呼んだ。「本当に親のいない子供にとっては残酷な歌」と言う批判の声があったものの、大ヒット。また、NHK紅白歌合戦への出場も果たす。
彼女のキャリアを語る上で欠かせないのはロックへの転向である。 1970年に突然のロック転向を表明する。直後近田春夫(のちにハルヲフォンを結成)、立川直樹らと「カルメン・マキ&タイムマシーン」と言うバンドを結成するが、すぐに解散。その後さまざまなバンドがバッキングについたが、最終的には当時の実力派バンドであった、ギタリスト竹田和夫率いるブルース・クリエイション(第二期)に落ち着き、それまで暗く不幸なイメージを持った歌を歌っていた過去を精算してしまった。
1972年には当時弱冠18歳であったギタリストの春日博文らとともに「カルメン・マキ&OZ」を結成。後に絶対的な評価を受けるグループに成長していくのだが、結成当初は順風満帆とは言えず、所属事務所からはキャバレー回りを強要され、時には客から「こんな曲では踊れない」とビンを投げつけられることもあったと言う。
しかし、こうした地道な活動が実を結び、1974年にポリドールからシングル『午前一時のスケッチ』でデビュー。翌1975年1月にはファーストアルバム『カルメン・マキ&OZ』をリリース。高い音楽性と完成度、そしてマキの歌唱力は高い評価を得、10万枚以上を売る当時のロックアルバムとしては大ヒットとなった。これは、当時のロックが日本の音楽業界ではほとんど相手にされていなかった事を鑑みれば快挙とも言える。また、同年リリースされたサディスティック・ミカ・バンドの「黒船」とともに、当時の日本のロックの到達点とする評価もある。特にこのアルバムに収録されている約12分にも及ぶ大作『私は風』はのちにさまざまな歌手、ミュージシャンにカヴァーされ、その中でも特に中森明菜のものが有名である。
それがどうした、って?
ある一人の女性歌手の人生とある女性の共通点・・・
”私は風”
あまりに哀しいことばかりで、どこか遠くに旅に出ようと、ポケットに思い出詰め込み一人汽車に乗ったの。
窓の外を走り抜ける、昨日までの私の苦い人生。もう二度と戻る事もないこの街ともさよならね。
もう涙なんて、枯れてしまった、明日からは自由な私。風のように自由に生きるの。一人ぼっちも気ままなものさ。
私を抱いて気の済むように、抱いた後であなとはもう別れよ、どうせ私は気ままな女、気ままな風よ。
胸の奥深く薄紫色の霧が流れる、誰か教えてよ私の行く先を・・・
見知らぬ街の街角に立ち、人並みの中漂う私、明日はどこへ、終わりのない旅・・・
大海原を風のように駆け巡る、私は脱脂粉乳を飲んで育ったマーメイド
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