| masao さん、
闘鶏からずいぶんずれてきましたが、畏れ、あるいは恐れには賛同します。現代において欠落してしまっているからです。
秀才の芥川龍之介は旧約を読んで、その文中に「神を恐れよ」という字句が頻繁に出てくるのに驚嘆しています。「なんという深い宗教であろうことか」と。あっちの神はともかく、恐れの対象がなくなっているのが現代という時代の特徴です。素朴には、私なんかの子供のときは大人が怖かった。大人は恐れる神であった。大人が怒鳴っただけで我らは震えあがった。
ある飲み屋で K 国から来たホステスに私はこういったことがある。「日本では男は神様なのだよ。」父親がキリスト教の牧師である彼女は真面目にとらえ、「ママー!日本では男は神様なのー!?」となんども叫んだ。周囲の日本人はおもしろい冗談であるとおもい、にやにやしていた。冗談ではない。私は畏れ(恐れ)の対象をいったのです。
かつて女にとって男は神様であった、つまり畏れの対象であった。それが女が女性という名の男権を得てから男を恐れなくなった。そしてそれによる不幸な女を私は嫌というほど見てきている。いま現在も周囲に数人いる。
男も然り。畏れの対象がなくなり驕り高ぶっている。なぜか。神が死んだから。ときどき神殺しの容疑者探しが行われることがある。
強いていうと、男も女も、無金状態をもっとも恐れる。経済大国の真った中で。なんとも皮肉なことです。
私はというと、金なんか無くともへちゃらです。土着の実力があると自負しています。それで、私の畏れの対象は判然としませんが、驕傲であってはならないと自戒しています。
あうふた
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