| 光と陰 パート4
8月1日、長男が生まれた。「セブ島二人暮らし」が時々頭をよぎるのだが、著者はPnaに妊娠させないよう気を配ったと記述している。彼の諸々の背景があるのだろうし、彼の生き方なのだから、それはそれでいいのだが、私はそう言う風には生きられなかった。 妻と私の年齢差こそあれ、男女二人が共同生活すれば自然の成り行きだからだ。人間には知恵があるから、もちろん産児制限は出来るのだろうが、私はこの国で生きていく、と覚悟を決めて生活し始めると、何か人が作った法律や慣習ではない「摂理」みたいなものに背くことに対して、変な気持ちになっていった。
路地裏を歩けば多くの子供達が裸でたくましく生きている。これらの子供達は、好むと好ざるとに関わらずこの世界に旅立って来ている。もちろん親も選べないし国も選べ無い。しかし、たくましく生きるその姿が、なんか妙に自分も一緒に生きてるんだと言う実感を与えてくれる。
この感覚は間違いなくこの国が私に与えてくれた光の部分だと感じている。この様な感覚は、日本にだけいたら味わえないものだろうし、美味く説明でき無いし、よしんばしたとしても腹の底までなんか、相手に届くものではないと思う。人、一人一人が内面の中で気づくしかない分野なのである。方程式が分かる、分からないとは違った世界である。 これらを通して、私自身の深層心理の中にある、陰の部分も氷塊していくのが分かった。それは、「俺はきっともう二度と女性を愛することが出来ないのかも知れない」と長年思っていたのが、いやひょっとしたらもう一度愛せるかも知れない、と言う自信のようなものを与え、変化させてくれたのが、今の妻をはじめ多くのPna達だった。これもこの国が私にくれた光の部分だったと思っている。幻想ではない、確かな愛のような、もやもやした実体のないものが徐々に形になってきているような気がしている。
この国で生まれた我が長男も、もちろん我々を選んで生まれてきたわけではない。多少は一般のP人よりはお金があるからと言って、この子の将来の幸せなど約束されているわけではない。少々高学歴を身につけさせたからって、いい仕事に就かせたからって、そこそこお金を得られるような生活を得たからって、それだけで幸福な人生とは言わない。
確かに、その日食べるのにも事欠くような生活でも幸福は幸福、なんて一概には言えないのだろうが、そうした生活であっても、問題は、生きるその人の感じ方、考え方そのものが問題なのであって、心の中に多くの陰や闇を蓄えて生きている人は、どうなんだろうか。しかし、この国では、光と陰の照度の差があまりないような気がしている。それもこの国の魅力の一つなんだろうか・・・。 私が、「光と陰」と題して書きたかったのは、実は我々人間が内面で持つ光と陰についてである。心の中に常に光が満たされていれば、道ばたに転がる犬の糞や、町中に放置されているゴミ問題など、二次的な要素になっていくのである。この国の人々が日本と比べてかなり違う習慣を持っていたとしても同じなのである。もちろん、心を砕くべき現実ではあるのだろうが、自分の本質的な部分での憂鬱感や問題性から切り離されて行く事柄なのである。
まだまだ自分の本質が見えないのであるが、折角ゆったりした時間が流れる国に来ているのだから、さらにじっくりと自分を見つめていきたいものである。
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