| >奴国から更に東(実際は北)へ陸路を百里(約9q)進むと不弥(ふみ)国(現在の箱崎付近)に着きます。この国の首長は多模(たも)、副首長は卑奴母離と呼ばれています。この国には千軒余りの家があります。
>東へ行くと、百里で不彌国につく。官は“多模”、副は“卑奴母離”である。千余家がある。
ここでは、かなり深刻な解釈が交わされています。 下の原文から説明をします。 「末盧国から東南に陸路を進むと、五百里で伊都(国」から私は伊都国を 吉野ヶ里遺跡辺りと推測しました。 伊都国以降の国に関しては、伊都国からの方向、距離とで解釈しましたが学者、愛好家の間に、別の解釈で伊都国からの方向、距離で奴國を決め、次の不彌國は、奴國からの方向、距離で決めるとする解釈があります。 これを連続法として、私の方法は、放射法とされます。 全く違った結果が導き出される解釈です。 私が放射法を取ったのは、原文を読んでの推測です。
東南陸行五百里、到伊都國。官曰爾支、副曰泄謨觚、柄渠觚。有千餘戸。世有王、皆統屬女王國。郡使往來常所駐。 東南至奴國百里。官曰[凹/儿]馬觚、副曰卑奴母離。有二萬餘戸。 東行至不彌國百里。官曰多模、副曰卑奴母離。有千餘家。
>奴国は、八女市として先に進みます
訂正します。 奴国は、距離からすると筑後市辺りか。 近くに八女市、みやま市。 不彌國は、久留米市辺りか。
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