| 【廣志曰:「(倭)國東南陸行五百里、到伊都國、又南至邪馬嘉(臺)國、百(自)女〔闕「王」〕国以北、其戸數道里、可得略載、次斯馬國、次巴百支國、次伊邪國、安(案)[イ妾](倭)西南海行一日、有伊邪分國、無布帛、以革爲衣、盖(蓋)伊耶國也。】
廣志曰 國東南陸行五百里 到伊都國 又南至邪馬嘉國 百女國以北 其戸数道里 可得略載 次斯馬國 次巴百支國 次伊邪國 安西南海行一日 有伊邪分國 無布帛 以革爲衣 盖伊耶國也
ここにある邪馬嘉國が単純なスペルミスで邪馬台国だとすると話が変わる可能性 があります。 邪馬台国北九州説のほとんどは、音に頼っての推測ですがこの広志の記録は、 邪馬台国宮崎県説を覆させる可能性あり。
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