| >会稽郡東冶県が建安郡東冶県と呼ばれようと、 >魏志、後漢書、晋書の「東冶」との記述は『会稽郡東冶県』を意味するものではなく、「会稽」と「東冶」の2点間表記でしょう。
事の始まりは、魏志倭人での記述での 会稽東治 の解釈と この記述を後世に引用しながら後漢書では、 会稽東冶 と書き換えた間違え。
魏志倭人伝 計其道里當在會稽東治之東 後漢書 其地大較在會稽東冶之東
魏志倭人伝の 會稽東治之東 には、ちゃんとした意味があり間違った文章では、無いのが私の意見。
それに反し 後漢書の 會稽東冶之東 は、記述を引用しながらも無知からか 治 を 冶 に書き換えた為に大きな誤解を広めてしまいました。
切り口は、2点ありますが最初は、ネットで教えて頂いた方法で。 案山子さんは、會稽東冶之東 は、、 「会稽」と「東冶」の2点間表記でしょう と書いていますのでこう敢えて 意訳するしかないかと思われます。 ( 会稽と東冶の間を東に )でしょう。
では、ここからが反論です。ネットから引用。
***** 『三国志』全体を調べてゆくと、これはすぐわかった。『三国志』の大半は「列伝」の形で書いてある。つまり、三国時代の代表的な人物の伝記だ。伝記は、その人物の出身地から書きはじめられている。それは、たとえばつぎのようだ。
董卓、字仲穎。隴西臨挑人也。 (董卓とうたく、字は仲穎ちゆうえい。隴西ろうせい、臨挑りんとうの人也)〔隴西郡の臨挑県〕〈魏志六〉
諸葛亮、字孔明。琅邪、陽都人也。 (諸葛亮、字は孔明。琅邪ろうや、陽都の人也)〔琅邪郡の陽都県〕〈蜀志五〉 劉鷂*、字正礼。東莱、牟平人也。 (劉鷂*りゅうよう。字は正礼。東莢とうらい、牟平ぼうへいの人也)〔東莢郡の牟平県〕〈呉志四〉
この三つの例は、『三国志』の魏志・蜀志・呉志から任意に一つずつとったものだ。この書き方は、『三国志』のどこをパッと開いてもすぐ目につくといっていいほどなのである。
つまり、地名を二つつらね、 (A)地名(郡名)+(B)地名(県名)となっているとき、必ずそれは 「A郡の中のB県」を意味するのだ。 *****
案山子さんは、會稽東冶之東 は、、 「会稽」と「東冶」の2点間表記でしょう と書いています。 ので、間違いですね。
私のオリジナル反論を出すまでもありませんでした。
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