| 『おれは、本来「会稽東冶」と記述しなければならないのを 何故、陳寿は魏志で「東治」と記述したか? を問題にしているんのです。これが一つ、 二つ目は、会稽の東冶県も会稽の東治県も存在しなかった。 ということです。『県』であるかないかを問題にしているのです。』
案山子さんの疑問は最もな気がしますね。 年代列記してみると
魏志倭人伝 西晋の沈寿が280年から297年に書いた歴史書 後漢書 432年范曄が書いた本紀、列伝 後漢 25〜220年 宋(南朝) 420〜479年
ここで面白いのが260年の郡の改変で会稽の東冶は、建安の東冶になったこと。 そして後漢と宋(南朝)の時代には東冶は、会稽の東冶あるいは建安の東冶のどちらだったのでしょうか。
「260年の郡の改変で会稽の東冶は、建安の東冶に」が史実であれば、その後に魏志倭人伝を書いた沈寿が280年以降に「会稽の東冶」という認識を持っていたとは思えない。すると「会稽東治」とわざわざ記述したのは「会稽郡の東治県」ではないな。後漢時代に「会稽東冶=会稽郡の東冶県」になっていたとしても魏志倭人伝の「会稽東治」は「会稽の東冶」とは全くの別物だと思える。
「260年の郡の改変で会稽の東冶は、建安の東冶に」なったことを明確にできる資料の存在がわからないから、私の考えが妥当なのか証明できない。
論争中のお二人は中国史に詳しそうだから孫引きじゃなくて出典をご存じないですか。
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